障害と付き合うことになって

成人になったから発症したと思われる私の進行性筋萎縮症の場合、それ以前と同じように日常生活は継続し、最初は躓きやすいとか、歩くのに足を引きずる程度。日常の動作はさして不自由はなかった。少し機能障害が進んだ状態になっても、残された機能で補いながら、日常の動作をこなしていた。

しかし、年月を経て、進行の度合いが増してくると、残された機能も衰え、いよいよ能力の低下が訪れた。

 日常のささいな動作、例えば手の指の力や握力が弱くなるので、靴下をはく・下着を上げる・一冊の本をもつ・引出しを開けるなどが不可能になってくる。そのたびに、今までできていたことができなくなった悔しさを味わうことになる。

 そんなとき、家族や親しい人は「言ってくれたらしてあげたのに」と声をかけてくれる。感謝をしつつも、頼むためにはそれなりの覚悟が必要なので、ついついためらいを覚えてしまう。

 能力低下を回りの人たちに助けてもらえれば、不自由度は緩和され、残された能力を発揮することができる。援助を受けることができれば、まだ十分に社会参加が可能になるというのに。

 

「頼む」行動

 必要な援助を受けるためには、こちらが具体的に「頼む」という行動を起こさなければならない。これに役立つのが、アサーティブな自己表現能力である。

 「頼む」という行動を考えてみよう。

①助けてほしいことが起こると、具体的にいつ、どうしてほしいのかをあらかじめ考える。
②自分はいまどんな気持ちで、してもらったらどうなるのかを整理する。
③相手に伝えて頼むタイミングを考える。
④頼んでOKが出れば完了。
 しかし、断られたときは、次の対応策を考える必要がある。
⑤断った相手への気持ちと自分の気持ちの整理。
⑤代替案を考える。
⑥もう一度、頼む勇気を喚起する。
⑦代替案を伝えて、交渉をする。(別の相手に頼む場合はもう一度①から出直す必要もある)

 代替案の中で、すぐにと希望しても待たなければならないときがある。時間が決められていたり、少しの待ち時間であればストレスは少ないが、いつしてもらえるかはっきりしないときや、遅くなる場合に待っている間に揺れ動く気持ちとの闘いは正直言って、かなりのストレスになる。

 この「頼む」行動も、事柄が自分にとって重要なこと、つまり必要で手数や時間がかかるものであれば、これだけのプロセスを準備する努力とストレスを持つことへの覚悟もできる。だが、ささいなことや不自由でなければ数秒で片付くことに、これだけのプロセスを必要とするのは、おおぎょうなことである。おおごとになるのがなんともはがゆい。

 「頼む」行動のストレスは、事故や病気で突然に障害を負った多くの人が持つであろうことが想像できる。

 障害者自身がアサーティブな自己表現を習得できればと、私は考えている。それと同時に、まわりの人たちが障害者の持つ、努力とストレスを理解できればと思う。