「痛い!」     想像力と共感を

  私は28年ほど前に、「進行性筋萎縮症」という難病にかかっていることが分かりました。その後不自由度は少しずつ進み、数年前からステッキ・伝い歩き・着替えの手助け・車椅子の併用・運転ボランティアの協力・家族の介助などをうまく組み合わせながら、日常生活と研修などの活動をこなしています。

これは、家での体験です。ある日、食事をすませて、書斎に移動しようと食卓に手を付き、上半身を起こそうとしていたときです。手のひらが滑って、顔を食卓にガーンと打ち付けたのです。線香花火のような星が一瞬私のまぶたの裏に飛び交いました。

「痛い!」

近くにいた妻は、「気をつけないと、いつも言っているのに、ダメじゃない。」と声をかけながら、額に手を当てて、打撲の様子を見てくれました。妻の態度や手際良い手当てには何の不足もありません。が、厳密に言うと、少しのズレがあったのです。

そのときの私は、突然に起こった出来事に動揺し、感覚は顔面の痛さにただただ集中していたのです。注意をしていなかった私の落ち度や、痛さがどれほど続くのか、打身や傷になってはいないかなどなど、前後のことまで気はまわっていなかったのです。

「痛い!」と叫んで、動揺と顔面の痛さに留まっているときに、「痛かったね」とか「びっくりしたね」という気持ちを共有する言葉が、まずほしかったのです。

人権教育の原点は、想像力と共感を、自分自身の「感覚」として育てることだと、私は考えています。このエピソードは、犯罪や災害の被害を受けた人に対する瞬間的な対応に、想像力と共感が大切であることを示唆しています。

被害に遭った人は、そのとき表現もできないような恐怖や動揺した感情にのみこまれ、パニックになっているのです。同時に「痛い!」という感覚だけが意識されています。この感情と感覚を、その人が経験しているように思い描く能力が「想像力」です。その能力で感じ取ったことに応答して行動をすることが「共感」です。

想像力や共感の感覚は、私たち自分自身の内なるところに眠っているのです。日常のなにげない場面であっても、この感覚に気づくことができます。差別やさまざまな被害を受けた人への深い共感をともなった関わりは、建前や理屈ではなく自らの内なる感覚から導き出されてくるのです。

 

関西学院大学 人権ブックレット No.2  原稿Ver.2   長尾文雄>981104